中国が2021年5月末、「三人っ子政策」を打ち出しました。一組の夫婦は3人まで子どもをもうけていいという政策です。
中国は2014年まで35年にわたって人口抑制のため一人っ子政策を実施していましたが、少子高齢化の懸念から2016年に二人っ子政策に切り替えました。その効果はあまりなく、2年くらいで多少の増分もなくなってしまったので、今回3人に増やしたのです。無制限ではなくなぜ3人までなのか。BBT大学院・大前研一学長が解説します。
大前研一(BBT大学大学院 学長 / BOND大学教授 / 経営コンサルタント)
編集/構成:mbaSwitch編集部
共産党が本気で少子化を止めたければ、3人までといわず、何人でも自由に産めるようにすればいい。それをあえてしないのは、漢人以外の民族的マイノリティが増えては困るからである。米国では白人の比率が低下をしており、中国は漢人の比率が低下することに警戒している。
米国の人口は3億3000万人を超え、10年前に比べると7%以上の増加となっている。それは主にアフリカ系、ヒスパニック(中南米)系、アジア系などの民族的マイノリティが増えたからで、その間に7割近くだった白人の割合は57.8%に縮小した。白人の人口は絶対数が減少に転じており、あと25年もすれば半数を切ると予想されている。そうなると、選挙で共和党の基盤とされる白人の影響力が弱まることになる。
中国には、新疆ウイグル自治区のイスラム教徒、チベット自治区の仏教徒、内モンゴル自治区のモンゴル人、東北三省には満族、朝鮮族などがいて、そのほかにも50以上の少数民族が暮らしている。マイノリティの人口は現在1割に満たないが、昔のように7~8人の子どもがいるようになれば、米国同様に人口のバランスは崩れるかもしれない。それでは、共産党が進める漢化政策、「漢人を中心とする国家」の基盤が揺らいでしまうのだ。
中国の国政には民主選挙はないが、特にウイグル族への警戒心は強い。なかにはIS(過激派組織「イスラム国」)などで戦闘訓練を受けたイスラム原理主義者もいて、「中国全土でゲリラ活動を展開されてはたまらない」というのだ。ウイグル族はトルコなどにも多いが、カザフスタン、ウズベキスタン、パキスタンほか近隣のイスラム教国と連携したら、中国は西側の国境が危うくなる。そのため、共産党は新疆ウイグル自治区の漢化が必要だと考えている。
かつては内モンゴルに同じ懸念があって、隣国のモンゴル国と連携する恐れがあった。だが、長年の漢化政策によって、現在の内モンゴルは漢化が進んだ。
チベットでも時間をかけて漢化を進め、いまや(インドに幽閉の身の)ダライ・ラマがなんと言おうと、ほとんど犬の遠吠えのようになっている。両地区の漢化政策は共産党にとっては成功事例であり、新疆ウイグル自治区にも当てはめるつもりだ。20~30年かけて進める政策だから、国際的に非難の声が高まっても、習近平は蚊が刺したほどにしか感じないだろう。
アパレル会社が「新疆綿を購入しない」と宣言すれば、H&Mで見たように共産党の主導で一斉に不買運動が起こる。中国市場から締め出すことなど簡単なのだ。ファーストリテイリング(ユニクロ)など中国依存が大きい会社は、これが怖い。大々的に宣伝するのでなく、少しずつ新疆綿を減らしていくしか方法はないだろう。
以上の民族問題があるから、共産党は「3人まで」と人数制限のタガを外せないのだ。
少子化問題を解決するために、そのうち中国社会科学院(中国政府のシンクタンク)あたりが、(米国ユタ州のモルモン教徒が行っている)一夫多妻制を提言しだすかもしれない。「ゴマ信用で900以上は3人まで、850以上は2人までと結婚していい」という具合である。中国のような国では、科学的に考えすぎて突飛な政策を打ち出すことがよくあるものだ。
人口減が心配される一方で、中国には人口が爆発的に増えた地域がある。深セン市だ。深センは経済特区となった1979年当時、人口30万人ほどの漁村だったのが、いまや1400万人に達しようとしている。世界中のヒト・モノ・カネが行き交うメガリージョンとなったおかげで、人口が40倍も増えた。1人あたりGDPも中国でトップに立ち、IPOやユニコーンなどでも群を抜いている。
深センだけでなくアリババの本拠地の杭州や、北京のイノベーション特区である中関村周辺など、地域単位で見れば、人口減の問題などどこ吹く風の地域も存在するのだ。
ウイグル人、モンゴル人、チベット人を次々と「漢人」化する中国の政策は不気味である。
※この記事は、『プレジデント』誌 2021年7月30日号を基に編集したものです。
大前研一
プロフィール マサチューセツ工科大学(MIT)大学院原子力工学科で博士号を取得。日立製作所原子力開発部技師を経て、1972年に経営コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニー・インク入社後、本社ディレクター、日本支社長、アジア太平洋地区会長を歴任し、1994年に退社。スタンフォード大学院ビジネススクール客員教授(1997-98)。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)公共政策大学院総長教授(1997-)。現在、株式会社ビジネス・ブレークスルー代表取締役会長。ビジネス・ブレークスルー大学学長。豪州BOND大学教授。