大前研一(BBT大学大学院 学長 / BOND大学教授 / 経営コンサルタント)
編集/構成:mbaSwitch編集部
2024年7月の英総選挙で14年ぶりに政権の座に返り咲いた労働党。年次党大会が同年9月22日、英国中部リバプールで4日間の日程で始まりました。就任したばかりの同党のキア・スターマー新首相は早くも支持が低下しており、総選挙の大勝と政権奪還を祝うムードは党大会にあまり見られません。
同大会3日目の9月24日にスターマー新首相の演説が予定されており、支持を取り戻せるのか、政策の進め方に注目です。政権交代の背景と、スターマー新首相の注目しておきたい政策について、BBT大学大学院学長・大前研一氏に聞きました。
英国で議会下院の総選挙が行われ、14年ぶりに政権交代が起きた。
英議会下院の定数は650議席。前回の2019年総選挙で与党・保守党は365議席を占めていた。しかし今回は121議席で3分の1に。野党・労働党は412議席で、前回から約2倍になった。もともと下馬評で労働党勝利が予想されていたが、「勝利」という言葉で片づけられないほどの地滑り的圧勝だった。
リシ・スナク前首相が率いる保守党の敗因は明確である。大きくは以下の二つがある。
(1)インフレに対する国民の不満
下院議員の任期は5年、任期満了まで選挙をしない選択もありえたが、スナク前首相は2024年5月にサプライズ解散をした。そのとき会見で強調したのがインフレ対策の成果だった。
スナク政権が発足した2022年10月の物価上昇率は10%を超えていた。その後、インフレは抑制され、2024年4月の消費者物価指数は2.3%で、約3年ぶりに2%台まで落ちた。これをチャンスと見て解散に踏み切ったが、インフレ抑制は国民が実感するレベルに達していなかった。この水準が数カ月続けば国民も変化を感じ取ったかもしれないが、賭けに出るタイミングが早すぎた。
(2)NHSの改革に失敗
NHS(ナショナル・ヘルス・サービス)の問題を解決できなかったことも大きい。NHSは国民なら誰でも医療を受けることができる建前になっている。実態は病院に行けば廊下で6時間待たされ、手術は3~6カ月待ちが当たり前。スナク前首相も課題の一つに挙げたが、患者の待機リストは増える一方で、有効な対策を打てなかった。
スナク前首相はゴールドマン・サックスなどの金融畑出身で、第2次ジョンソン政権では財務大臣も務めた。マクロ経済には自信があり、実際にインフレ率の抑制にも成功している。
しかし、スーパーで買い物に苦労するとか、病院で何時間も待たされるといった生活上の問題を解決できず、国民の不満が爆発したのも当然である。
庶民感覚の乏しさは、選挙後の会見からもうかがい知れる。首相官邸にあたるダウニング街10番地で行われた退任会見は、「アイムソーリー」と国民への謝罪の言葉で始まり、スターマー新首相への賛辞とエールが大半を占めた。敗者のお手本ともいうべき、清々しいスピーチだった。
ただ、実はスナク前首相はイギリスでも有数なお金持ち一家の一人である。本人はインドからアフリカに渡って財をなした印僑の家系で、スタンフォードに留学。そこで出会ったのが、世界的SIer(システムインテグレーター)であるインフォシスの共同創業者で初代CEO、ナラヤナ・ムルティの娘、アクシャタだった。
アクシャタはインフォシスの株を0.93%保有し、それだけで毎年数十億円の配当が懐に入る。また、夫婦での総資産は約1200億円と言われ、これはイギリスの国家元首であるチャールズ国王の資産を上回る額だ。
時にそのリッチな生活は、リシ・リッチと皮肉られ、スナク前首相の政治キャリアにおいて、議論の的となった。もちろん、英首相の座にしがみつかなければいけない経済的事情は何もなく、だからこそ爽やかに舞台を去れたのだ。
スナク前首相とは対極の経歴であるのがスターマー新首相である。スターマー新首相は筋金入りの労働者階級だ。工具職人の父親と看護師の母親は、共に労働党党員である。キアというファーストネームは、労働党の創設者であるケア(キア)・ハーディーからつけられた。生まれたときから労働党とともに歩むことを定められたようなものだ。
弁護士として活躍後、政治家に転身。遅咲きだが、そこからは評価され、初当選から5年で労働党党首になった。
政策は庶民派らしく、今回の選挙でも強調したのはNHS改革だった。具体的には、待機リストを短くするため、イングランドで毎週4万件の予約診療を増やすと約束。そのためには医療のリソースを増やす必要があるが、納税回避や非定住者の税優遇などを取り締まって原資をつくることにした。
ちなみに、元弁護士の妻は現在NHSで勤務。この背景からも、机上の空論ではない現場視点の改革案である可能性は高い。
他の公約も庶民に寄り添うものである。イギリスは住宅不足が続いているが、供給を促すために関連法を改正し、150万戸の新規物件を建築。地元住民に対して開発物件の優先購入権を付与する制度も創設する。
教育では、私立学校への税優遇廃止を原資として、教師を新たに6500人増員する。6500人では少ないが、方向性としては正しい。
保守党との違いは、ルワンダへの不法移民移送問題にも表れた。英国には近年、小型ボートで不法入国する移民が後を絶たない。保守党はジョンソン政権時代、ルワンダにお金を払って不法移民を引き取ってもらう計画を立案した。紆余曲折があり2024年4月に法案が可決したが、労働党はこの法律の廃止を決めている。
英国の不法移民は中近東から来た人が多く、アフリカのルワンダには縁がない。管理体制にもよるが、送り込んでもおそらく逃げられて、また移民化するだけだ。
英国政府は、この計画で4億ポンド(約800億円)をルワンダに支払った。無駄な支出であり、「もっと暮らしがよくなることに予算を使うべき」というのが国民の思いだろう。ルワンダは「貰った金は返さない」と言っている。保守党の無駄遣いぶりが浮き彫りにされた。
スナク前首相とスターマー新首相の政策を比べると、今回は庶民派のスターマー新首相に軍配が上がったことに納得がいく。
ただ、新政権に不安がないわけではない。例えば、以下の2点である。
(1)マクロ経済政策
一つはマクロ経済だ。スターマー新首相は大衆の暮らしぶりには敏感だが、逆にマクロ経済政策は未知数である。ここを間違えると、結局は庶民の生活が苦しくなってしまう。
幸い、英国は中央銀行のイングランド銀行がしっかりと機能し、金融市場もそのように評価しているのか、政権交代後もいまのところポンドは堅調だ。スターマー新首相の手腕には、もう少し観察が必要だ。財務大臣には700年の歴史で初めて女性のレイチェル・リーブスが任命された。労働党の影の内閣でも財務相をやっており、議員になる前はイングランド銀行で日本の分析などを担当していたエコノミストだ。
(2)北アイルランドなどの独立問題
経済以上に心配なのが国内の独立問題である。実は今回の総選挙で印象的だったのは、北アイルランドでシン・フェイン党が18議席のうち7議席を獲得して第一党になったことだった。シン・フェイン党は過激派組織IRAの元政治部門であり、アイルランドと英領北アイルランドの統一国家建設を悲願としている。その政党が北アイルランドで最大勢力となったのだ。
北アイルランドは英国国教徒の移住によって、もともと暮らしていたカトリック系アイルランド人は少数派になっていた。しかし、カトリック系のほうが出生率は高い。時代とともに人口構造が変わり、今ではカトリック系が英国国教徒を上回る。それが選挙結果にも表れ始め、今回は初めて英議会選挙でシン・フェイン党が第一党になった。これで北アイルランドの英国離脱、アイルランド共和国との統一が現実味を帯びてきた。
この流れを後押ししているのがブレグジットである。保守党の敗因を分析したが、スーパーに商品がなくて価格が上がったのも、医師や看護師が足りずに満足な医療サービスが受けられないのも、英国がEUを離脱した影響が大きい。関税や検疫が復活し、人々の移動の自由が制限されるようになったから物価高騰や人手不足が起きた。
北アイルランドがEU加盟国のアイルランドと統一されれば自動的にEUに復帰し、北アイルランドは人や物が自由に出入りできるようになる。北アイルランドにはそれを望む住民も多く、本気で離脱を望めば、英国にそれを阻止する術はない。
プーチン大統領がロシア系住民保護のためにウクライナに出兵したが、英国が国教徒保護のために北アイルランドに軍を出すことは今の時代にはさすがに考えられない。そして北アイルランドが離脱すれば、スコットランドやウェールズもそれに続く可能性が高い。
この流れを変える方法はただ一つ。英国がEUに再加盟することである。あるいはスイスのように、EU未加盟のままシェンゲン協定(EU域内の移動の自由に関する協定)を締結し、さらにEU域内との移住の自由も保障した条約を締結する。EU側もそれを受け入れる可能性がある、と私は見る。
ところが、スターマー新首相は今回、公約にEU再加盟を意図的に入れなかった。ユナイテッドキングダムが解体されてイングランドアローンになる前に決断できるかどうか。スターマー新首相の試金石である。
※この記事は、『プレジデント』誌 2024年8月30日号 を基に編集したものです。
大前研一
プロフィール マサチューセツ工科大学(MIT)大学院原子力工学科で博士号を取得。日立製作所原子力開発部技師を経て、1972年に経営コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニー・インク入社後、本社ディレクター、日本支社長、アジア太平洋地区会長を歴任し、1994年に退社。スタンフォード大学院ビジネススクール客員教授(1997-98)。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)公共政策大学院総長教授(1997-)。現在、ビジネス・ブレークスルー大学学長。豪州BOND大学教授。