大前研一(BBT大学大学院 学長 / BOND大学教授 / 経営コンサルタント)
編集/構成:mbaSwitch編集部
国会は2024年11月、先月の衆院総選挙を受けて、衆参両院で総理大臣指名選挙を行い、自民党の石破茂総裁を第103代首相に選出しました。石破首相と親交のあるBBT大学大学院学長・大前研一氏に、石破氏は名宰相になれるかどうかを2回シリーズで聞きました。前半の今回は、名宰相の条件について大前学長に聞きました。
私は石破氏を応援していた時期がある。何度も酒を酌み交わしたが、性格は真面目で清廉である。人柄には今も好感を持っている。しかし、石破内閣に期待ができるかどうかは別の話である。残念ながら、今のままでは凡庸な首相に終わる可能性が高い。
問題は、首相になって何をやるかだ。石破首相は自民党総裁選でさまざまな論点を挙げていた。アジア版NATOの構築、日米地位協定の改定、地方創生、防災庁の創設、政治資金をチェックする第3者機関の立ち上げ、憲法改正−−。
さすがに政策通であることを見せたが、首相になった後は、この幅の広さが仇になりかねない。やりたいことが多いと、推進力や突破力が削がれて、どれも中途半端に終わるリスクがある。
歴代の首相で名宰相と呼ばれた人は、自分のやりたいことを一つに絞っていた。2人の名宰相を例に挙げて具体的に解説しよう。
田中角栄元首相は、1972年自民党総裁選の前に『日本列島改造論』を発表し、「国土の均衡ある発展」を訴えた。田中元首相は新潟県西山町(現在は柏崎市に合併)の生まれである。太平洋側の工業化が進む一方、日本海側は高度成長から取り残されていた。その状況を憂いて、地方に交通インフラを整備し、人口の過密や公害に悩む太平洋ベルトから工場の移転を促した。
道路や新幹線などの交通インフラを整備すればお金がかかる。人口減の今、公共工事のために国債を制限なく発行すれば将来に借金を残すだけだ。しかし、当時は人口増で、「国土の均衡ある発展は経済的合理性」があった。
田中元首相は内閣成立後、実際に政策を推し進めて地方にお金を回した。私はバイクで日本中をツーリングするが、どこに行っても道路と公衆トイレは立派である。住宅などで見ると、地方の衰退に歯止めはかかっていないが、田中元首相が「国土の均衡ある発展」を打ち出していなければ、もっとひどい状況だっただろう。
1980年代に首相を3期務めた中曽根康弘元首相は、政策を二つに絞った。一つは、「日米イコールパートナー」だ。敗戦国の日本は、軍事的に米国に属しているようなものだったが、中曽根元首相は日米関係と、防衛力を共に強化し、日米の対等を目指した。実際、ロナルド・レーガン元首相と「ロン・ヤス」と呼び合う仲になり、防衛費のGNP比1%の枠を撤廃した。
中曽根元首相は年齢に関係なく人の話に真摯に耳を傾ける人だった。私は、30代のころ中曽根元首相と初めて食事をした。中曽根元首相は前もって質問を用意しており、私の説明を聞いて得心すると、それをメモに書いてすぐ次の質問に移る。私は、料理に手をつける時間がなくて困ったが、回りくどいところが一切なく、意思疎通がしやすかった。
のちに海部俊樹内閣が「日米イコールパートナー」を辱める外交をしたとき、私は「日本政府は米国の霞が関出張所になった」と雑誌に寄稿した。それを読んだ中曽根元首相は「久しぶりに食事を」と電話をくれた。その席では「海部は許せない。よく書いてくれた」と息巻いていた。それくらい中曽根元首相にとって「日米イコールパートナー」は大事なことだった。
もう一つは「3公社5現業の民営化」である。国鉄(現JR)や電電公社(現NTTグループ)の労働組合は激しく抵抗した。国鉄再建監理委員会元委員長を務めた亀井正夫住友電気工業元会長の自宅には脅迫電話が相次いだ。亀井元委員長は身の危険を感じ、ホテル暮らしを余儀なくされた。
それでも遂行できたのは、中曽根元首相が内政の課題を「3公社5現業の民営化」一つに絞り、強いリーダーシップを発揮したからである。5現業の一つ、郵政はこのとき民営化できなかったが、のちに小泉純一郎元首相が「郵政民営化」のワンイシューで実現した。
大きな事を為そうとするなら、取り組むテーマを一つ、多くても内政・外交で合計2つに絞らなくてはいけない。それが名宰相になる条件である。
後半の次回では、石破氏が掲げるテーマについて解説する。
※この記事は、『プレジデント』誌 2024年10月18日号 を基に編集したものです。
大前研一
プロフィール マサチューセツ工科大学(MIT)大学院原子力工学科で博士号を取得。日立製作所原子力開発部技師を経て、1972年に経営コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニー・インク入社後、本社ディレクター、日本支社長、アジア太平洋地区会長を歴任し、1994年に退社。スタンフォード大学院ビジネススクール客員教授(1997-98)。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)公共政策大学院総長教授(1997-)。現在、ビジネス・ブレークスルー大学学長。豪州BOND大学教授。