大前研一(BBT大学大学院 学長 / BOND大学教授 / 経営コンサルタント)
編集/構成:mbaSwitch編集部
国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)は資産規模10兆円の通称「大学ファンド」の2022年度の運用実績を発表しました。604億円の赤字で、率に直すと-0.6%です。損益計算書上の当期利益は742億円ですが、2023年3月末時点での含み損が1259億円に上りました。
【資料】
『2022年度 業務概況書 −大学ファンドの運用状況等−』
JSTによると、「国際卓越研究大学等への助成財源となる額は、損益計算書上の当期総利益(742億円)より前年度の繰越欠損金(62億円)を除いた額から、大学ファンドの財務状況等を踏まえ、別途決定されます」とあります。
一方、文部科学省幹部は「運用益の範囲内で助成をするため、成果が出なければ支援が難しくなる」としています。運用益がマイナスなので、支援が出ないのは当然でしょう。
支援対象とされる「国際卓越研究大学」は、応募した10校の中から東京大、京都大、東北大に絞られました。2023年秋に1、2校を選定する方針です。
BBT大学院・大前研一学長は、「年間1億円の投資だけでも16社をIPO(株式公開)に導くことができた」として、10兆円ファンドは「税金の無駄遣い」だと言い切ります。
壮大な無駄づかいが始まった。10兆円規模の大学ファンドである。
10兆円大学ファンドが無駄なのは、目的がズレているからだ。国際卓越研究大学制度は、世界トップレベルの研究力を目指す大学を支援する仕組みだ。ひらたくいえば、「科学技術大国の夢よ、もう1度」。ノーベル賞を受賞するような研究で日本の存在感を示したいのだ。
しかし、大学の世界ランキングの順位を気にしているのは、文部科学省と大学の関係者だけだ。国民が期待するのは、テクノロジーで産業を盛り上げること。そこを履き違えて、20年後のノーベル賞受賞を目的とした研究に税金を突っ込むのは、愚の骨頂である。
たしかに、日本はノーベル賞受賞者を多数輩出している。しかし、お金になった研究は中村修二氏の青色発光ダイオード(LED)や本庶佑氏のがん免疫治療薬オプジーボなど数少ない。
一方、中国の科学技術分野のノーベル賞受賞者は1人だけだが、特許数はすでに日本を上回り、ユニコーンやデカコーンも多数生まれている。もはや、科学技術力をはかる指標として、ノーベル賞に意味がないことは明らかだ。
私も米MIT(マサチューセッツ工科大学)で博士号を取った学者の端くれであり、基礎研究の大切さは重々承知している。しかし、基礎研究に途方もない額を突っ込んで、20年〜30年後に期待するのは暇な時代の発想だ。
お金がかかる研究といえば、宇宙開発や線形加速器、ITER(核融合実験炉)。日本でもカミオカンデで小柴昌俊、梶田隆章氏などがノーベル賞を受賞している例が思い浮かぶ。しかし日本の産業が世界から取り残されつつある今、金食い虫の研究に特別にお金をかける余裕はない。
お金を出すとしても、その受け皿はなぜ国立の研究所ではなく大学ばかりなのか。たとえば人類に残された最大の悩みは「がん」だが、お金が10兆円もあるなら国立がん研究センターなどに注ぎ込んで、世界中から優秀な医者や研究者を招聘したほうがいい。政府はお金の使い方が本当にヘタだ。
10兆円ファンドの創設は、海外の一流大学に比肩する大学を日本から生み出すことも目的のようだ。米シリコンバレーの中枢を担うスタンフォード大学のような、国際競争力を持つ超名門大学に、政府は憧れを抱いている。しかし、なぜスタンフォード大学が成功しているのか、まったく理解していない。
では、スタンフォード大学はどうやってシリコンバレーの起業家を養成しているのか。私はスタンフォード大学のビジネススクールで客員教授を2年間やっていたのでよく知っているが、重要なのは「お金」ではない。起業家養成に欠かせないのは「出会い」だ。
例えば、1990年代に世界のソフトウエア産業をリードしたサン・マイクロシステムズは、大学内の出会いで誕生した。まだオフコンの時代だった82年、大学から校内LANの構築を頼まれたスコット・マクネリーが、インターネットの神様と呼ばれていたカリフォルニア大学バークレー校のビル・ジョイに声をかけた。ミーティングしたのは、スタンフォードの街角にあるマクドナルドの2階。そこで起業が決まった。社名のSUNは太陽ではなく、Stanford University Networkの略である。
ビジネススクールの学部長を務めていたマイケル・スペンス教授もその場にいて、ボードメンバー(役員)に入るよう要請された。スタンフォード大学には、教授は3社以上の会社のボードメンバーに就けないルールがある。マイケル・スペンス教授は、のちにノーベル経済学賞を受賞する学者で、すでにバンク・オブ・アメリカなどの巨大企業のボードメンバーを務めていた。しかし、彼は鼻が利く。3社のうち1社を落として、サン・マイクロシステムズのボードメンバーになった。「世界一豊かな教授」と呼ばれる所以だ。
スタンフォード大学の強さは、起業家やエンジニア、投資家などが出会う場があることだ。出会いはさらに組織化されていて、コリドー(スタートアップが格安で入居できる小屋)が用意されており、起業家を支援して投資家に対してプレゼンさせるアクセラレータープログラムも盛んだ。人を集めて出会わせる仕掛けがあるから、ベンチャー企業が続々と生まれるのだ。
ベンチャー企業を多数生み出している世界の大学は、「出会い」の場を上手に設計しているところばかりだ。
英国にはケンブリッジ大学とオクスフォード大学という名門大学があるが、ベンチャー企業を生み出しているのはケンブリッジ大学だ。その中でもトリニティカレッジに集中している。
ケンブリッジの場合、出会いの場はパブだ。ケンブリッジ大学には、ジェームズ・クラーク・マクスウェルが設立したキャベンディッシュ研究所がある。マイクロソフトなどが出資する最先端の研究所だ。パブはトリニティカレッジと研究所の間にある。そこで交わされる先生と学生の会話に聞き耳を立てているのが、アマデウスという有名なVC(ベンチャーキャピタル)の投資家たち。儲かりそうな技術があれば、ベンチャーキャピタリストが声をかけてベンチャー設立へと動き出す。
スタンフォード大学では教授がベンチャー企業に出資して余禄にありつくのに対し、ケンブリッジ大学は教授が自分で商売をやってもいい。お金はVCから引っ張ってくるので、それで研究設備は揃えられる。成功して教授が大学を辞めれば、ポストが空くので助手もうれしい。世界中から野心的な研究者が集まってくる理由でもある。
中国の北京にある中関村も起業では負けてはいない。中国には大学と民間が出資する校弁企業という仕組みがあり、清華大学や北京大学は中関村に数百の校弁企業をつくっている。
世界を見渡せば、ほかにはアイルランドのトリニティカレッジ、都市で言えばドイツのベルリンが野心的な若者たちで賑わっている。年間500社を超える新規企業が設立され、起業の聖地と呼ばれるようになった。
一方、ロンドンのカナリーワーフ地区はフィンテック関連の起業の中心に。スウェーデンでは、エリクソンの本社があるシスタサイエンスパークが起業の中心だ。デンマークのコペンハーゲン、フィンランドのヘルシンキやオウルなども盛り上がっている。共通点は、やはり起業家や研究者、投資家が集中していて、彼らが自然に出会う場があることだ。
逆に、名門大学でもボストンのハーバード大学やMITはさっぱりだ。ボストンの冬は極寒で、散歩できない。街中で投資家と知り合うといった偶然が起きづらいのだ。また、私は原子力潜水艦スレッシャー号の沈没原因を研究していたが、軍事研究であるため厳しい守秘義務があった。ボストンは、このような機密性の高い研究が多く、仮に出会いの場があっても気軽に情報交換できない。これでは人の出会いから新しいビジネスは生まれない。
日本も、ビジネスマッチングを促進し、起業を増やすためには「出会い」に注力すべきだ。偶然の出会いは、起業家や研究者が集う大学や研究所、彼らが暮らす住居、ぶらぶら歩くボードウオーク(板張りの遊歩道)で起こる。
初期投資の段階から関与していけば、年間1億円の投資だけでも16社をIPOに導くことができた。にもかかわらず、10兆円規模とは桁違いも甚だしい。多額の税金をドブに捨てるようなものだ。
※この記事は、『プレジデント』誌 2023年6月2日号、『大前研一ライブ#1172』2023年7月16日放送 を基に編集したものです。
大前研一
プロフィール マサチューセツ工科大学(MIT)大学院原子力工学科で博士号を取得。日立製作所原子力開発部技師を経て、1972年に経営コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニー・インク入社後、本社ディレクター、日本支社長、アジア太平洋地区会長を歴任し、1994年に退社。スタンフォード大学院ビジネススクール客員教授(1997-98)。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)公共政策大学院総長教授(1997-)。現在、株式会社ビジネス・ブレークスルー代表取締役会長。ビジネス・ブレークスルー大学学長。豪州BOND大学教授。